旅に出よう。 – go traveling

ブログのレイアウトを変えるきっかけで、2013年5月から始めたこのブログの全記事をあらためて読み返してみました。

2013年〜2014年、つまり息子が2歳になるくらいまで、私は”子育てをものすごく頑張っていた”んだということに気付かされました。アトピーがこんなにひどくて、食物アレルギーまで発覚して、夜はロクに寝られなくて、でも私はそれを頑張ってやっています・・・という話しについてこんなにも書いていたのか、と我ながら驚きました。
今すぐ当時の私のところに飛んでいって、ポンポンと肩をたたいて”そんなに頑張らなくて大丈夫だよ”と言ってあげたい。
私は”息子の母親”というアイデンティティーを保つために、さらに良い母親であろうとしてすごく頑張っていたわけですが、”人生という形で目の前に展開される出来事は、自らの”意識”の写し鏡である”という概念をすっかり自分のなかに取り込んだ今となっては、そうか、やっぱり”私はいまのままの自分では駄目、もっと頑張らなくてはReiの良い母親ではない”という無意識を発していたんだということに、ようやく気づくことができます。

そしてReiが2歳を過ぎた頃の2015年の5月以降、現在も続く、元夫から息子の親権をめぐる裁判を起こされるという出来事が起こってきて、さらにそれに対して2年以上に渡って必死に戦い続けた挙句、私は息子の親権を放棄しなくてはならないという現在の状況にまで陥ってしまったのだということを俯瞰できます。

この構造を自ら見抜くためには、レヴィ・ストロースというフランス人の文化人類学者の”野生の思考”という考え方と、そして5000年以上の昔、中国で老子という人が遺した”道”という考え方が非常に役に立っています。

それぞれの教えについては後日また掘り下げようと思っていますが、要は、”人は、こうあるべきだ”、”理想の形になるために努力をしなくてはならない”というのは、すべて幻想なのだということです。
”人はこうあるべきだ”という、西欧的な考え、あるいはこう言い切ってしまうのが正確かどうかはわかりませんが、儒教的な考えは、人生の何処かで行き詰まりをもたらす、ということだと思います。

そして、私たち現代の地球人の多くが陥っている行き詰まりは、とどのつまり、この幻想を抱くことによる苦しみであると言えるのではないでしょうか。

成長することこそ良い、新しいものが善、努力なくしては何事も成し遂げられない、正しいものは正しい、その他は間違いで悪である、というベースに、さらにキリスト教的な原罪論が拍車をかけ、”われわれ人間は目的に向かって、日々、努力して頑張って良い人間になるべく行動しなくてはいけない”という固定観念を持たされていないでしょうか。

それは果たして、本当でしょうか?
私たちが赤ちゃんとしてこの世に生まれ落ちた時、果たしてそんな考え方をもって生まれてきたでしょうか?

私は、絶対にNOだと思います。
その考えは、親や学校教育を始めとするありとあらゆる大人たちからの刷り込みなのではないでしょうか?

私はオーストラリアの人々のなかに、”自分が絶対に正しい”という信念のベースが日本人よりずっと強く根付いているようだと感じます。
”これが正しい、それ以外は間違いで悪である”と、言い張る人が非常に多い。一見して正論なようでいて、ところがそれが実は無根拠であることも多いからこそ、力づくでそれを押し通そうとする。必死に言い張って、”自分は間違っていないのだ”ということを、あまり関係のないことまで引っ張り出して言い訳をして証明しようとする人がとても多い。(特に女性に多いような気がします。男性はもともとどちらかというと論理的なので、ただ無理矢理言い切るということはしないのかもしれません。)

でもそれは、単に彼らの親や教師のあり方をコピーしているだけに過ぎないとわかります。彼らもまた、親の世代からそうやって言い切られてきたから、彼らの中には、”実は自分の考え方ややっていることが間違っているかもしれない”という選択肢が入り込む余地がないようです。余地がないというより、そんなことを認めてしまったら、すべてがおしまいだというふうに、無意識で感じているのかもしれません。
これは日本人に比べて、ということですが、オーストラリア人はなかなか謝りません。自分が間違っていたということを認めることに、恐怖が伴うのだと思います。

それとは逆に、日本人には、”今の私のままではまだまだ駄目だ”という謙遜を通り越した自己卑下のような感覚が蔓延しているように思えてなりません。そして、先にまずともかく謝ります。自分が悪いと全く思っていなくても、謝ってしまいます。
意識こそしていなくても、やはり私たちの中には儒教的な考え方が根付いているのかもしれません。成長、発展を目指してきた私たちの親世代くらいまではそれでも良かったのかもしれませんが、いまという時代には少し苦しくなる考え方かもしれません。

そういう日本人は、オーストラリア人から”自分は正しくて、おまえが間違っている”という前提で話しをされると、どうにも閉口してしまうところがあります。私たち日本人は、そのように言われた時に抵抗して言い返す術をもともとあまり持ち合わせていません。”そうか、自分が間違っていたのかもしれない、駄目なのかもしれない”とうっかり思い込んでしまうことも多く、言い返せるようになるには、訓練が必要です。

私も、そのような考え方に汚染されて生きてきました。
努力しなくてはいけない、怠けてはいけない、正しいことをしなくてはいけない、そう信じて生きていたように思います。でも、この世の中において、正しい – 間違っている、良い – 悪いと二極的に分けられることなんて、本当は存在しないのだと思います。

ありのままで、あるがままで、それをそのまま生きる、本当はそれがすべてなのだと思います。

私たちは”何かが欠けている状態が良くない”と、常日頃、無意識で感じてしまいます。でも、”欠けていない完璧な状態”などというのは、そもそも存在せず、それは私たちの頭のなか(マインド)だけにある幻想なのです。なぜなら、そうでなければ、私たちの世の中はとっくに”完璧で、理想な状態”になっているはずではないですか。でも、むしろ今の世の中はその正反対の状態です。

いま、私たちにもっとも必要なのは、ありのままで、あるがままに、それをそのまま生きるという知恵なのではないでしょうか。何事にも抗わない、抵抗しない知恵。
その知恵を身につけることで、何事にも抗わないで良い、戦わなくて良い人生が、目の前に展開されてくるのではないでしょうか。
これもまた、言うは易し行うは難しであることを承知の上で、書いています。
でもこれがいま、私にとっての人生の試練が教えてくれている教訓です。

今日ひさしぶりに友人たちと、”女子会”と銘打って、楽しく韓国料理を食べる機会がありました。
そこで友人たちが、”新たなチャプターを開くために、旅に行ってきたら?”と言ってくれ、”そうだ、私は旅に出たかったんだ!”ということを思い出しました。
よくよく考えれば、ここ6年ほど、旅といえる旅をしていません。

ずっと旅に出たいとどこかで思ってはいたのですが、なかなか踏み切れずにいました。
でもいま、そういうタイミングな気がしています。

目的地は、どこでも良い。でもたぶんそれはまだ、日本ではない。

私はともかく、しばらく旅に出ようと思います。

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