魂について 〜 Twin soul

前回の、息子の胎内記憶(魂の記憶)について書いた勢いで、魂ということについて書いてみます。

日本人は、”魂”という言葉を、あまり抵抗なく使います。
”魂が抜けたようだった”というような表現もするし、肉体から魂が抜け出すというイメージもなんとなくできるでしょうし、あとは”ソウルフード”なんて、食べ物に対して使うこともしますし、”大和魂”なんていう表現もあります。また、”この子はおばあちゃんの生まれ変わりに違いない”とか、生まれ変わり、つまり輪廻転生の考え方もわりと広く受け入れられます。

ところが、このブログでもしつこく書いているように、こと”スピリチュアリティ”、”スピリチュアル”という表現をすると、日本人は途端に拒否反応を示す人が多いように感じられます。それに付随して、パワースポットとか、パワーストーン(クリスタルのこと)に対してもどことなく”胡散臭い”感じに捉える人も多いのではないでしょうか。
この言葉の大義としては、”霊性”、”精神性”ということなのですが、日本語でこの”霊性”という言葉を捉えた時、個人の内面のなかの、とりわけ”宗教的な”というニュアンスがどうしても入ってしまうようです。
現在の私にとっては、”スピリチュアリティ”と”宗教”とは、異質のことであって重なり合う部分はほとんどないのですが、どうも日本人的な捉え方ではそこがリンクしてしまうようです。
確かに私も6、7年前までは、”パワーストーン”と聞いても、”スピリチュアル”と聞いても胡散臭い感じがして毛嫌いしていたことは否めません。どちらかというと、占いや心霊現象などのサブカルチャーの領域に捉えられてしまうということでもあるかもしれません。

先日そのような話しをNHKに務める友人としていたのですが、報道の最前線で働く彼にとっても、やはり”スピリチュアル”と聞くだけで胡散臭いという答えが帰ってきました。そして彼曰く、日本では、オウム事件が起きた後はそのイメージが強すぎて、”怪しい”と拒否反応を示すんじゃないかということで、妙に納得しました。確かに日本人にとって、もともと私たちの生活に深く溶け込んでいる”仏教”か、あるいは明確にわかりやすい”キリスト教”以外の”宗教”については、”どこか怪しい”というイメージが拭えなくなっているのかもしれません。

ただそもそも、日本人にとって”スピリチュアリティ”に対する捉え方が、どうしてこれまた”宗教”とそんなに絡んでしまっているのか、私にとってはまだまだ謎です。というのも、確信はありませんが、少なくともここオーストラリアでは”スピリチュアリティ”と”宗教”はそこまでリンクしていないように感じられます。
やはり日本では、科学で解明できない霊的なこと・精神的なことは、宗教が扱う分野であるというベースがあり、結局のところ科学で証明できるものこそが正しいという大前提がどっしりと根付いてしまっているのかもしれません。自然を崇拝するアニミズム的な思想も、神道も、その風潮が次第とどこかへ追いやってしまっているのかもしれません。
明治以降、西欧的な価値観を取り入れ、熱を上げ、西欧文化バンザイとなってしまい、もともと日本に根づいていた思想をすっかり失ってしまったのかと考えると、あまりに悲しい気持ちになります。
というのも、そもそも神道も自然崇拝の思想も、スピリチュアリティと密接に結びついた思想であると思います。したがって日本人の素地としては非常に親和性があるのに、西欧文明を礼賛するばかりに、どこかわざわざ切り捨ててしまったような感があります。
少なくとも私には6、7年前まではそのように思えました。現在の日本は、ひょっとするとスピリチュアリティに対して以前よりもオープンな人も増えているかもしれませんが。

それでも日本では、ここオーストラリアやあるいはアメリカなどではわりと話題になることの多い”ソウルメイト”や”ツインソウル”という言葉は、まだまだほとんど馴染みがないかもしれません。
”ソウルメイト”や”ツインソウル”の定義は人によって異なるので、一概にこうだと説明することはできません。ただ、自分を魂としての存在として意識した時、つまり今生だけではなく前世も来世もあるという考え方を取り入れた時、転生するなかで何度となく出会う重要な魂の存在がいるということです。ある人生では親子の関係かもしれませんし、ある人生では恋人同士、あるいは兄妹や友人かもしれません。
私もこれらの事柄についてはまだまだ知らないことばかりなのですが、私は、”ツインソウル”とは、もともとひとつの魂の存在が、魂を磨くために2つに別れたいわゆる片割れずつの存在であると解釈しており、”ソウルメイト”とは別の位置づけだと思っています。そして、”ソウルメイト”は人生のなかで複数名存在すると思っています。また、”ツインソウル”とも”ソウルメイト”とも恋愛関係になる可能性もありますが、そうとも限らないと考えています。そして、それらの存在が唯一無二の恋愛対象というわけではない、というふうに捉えています。

そして、これは一般的にはなかなか受け入れられない考え方かもしれませんが、私は元夫が自分の”ツインソウル”なのではないかと思っています。私たちは少なくとも結婚してから、まるで磁石のS極とN極のように反発するようになりました。それでも私たちの間には、2人にとってかけがえのない大切な息子が存在し、その存在を介して、決して縁が切れることはありません。前にも書きましたが、そのことを以前の私は生き地獄のように感じたものですが、今になってみると、これが私の人生で与えられた学びなのではないかと思っています。私たちが再び恋愛関係に戻ることはまず有り得ませんが、息子という存在を介してお互いを少しずつ認め、受け入れるということが今生の私たちに課された学びなのではないかと思っています。

こんなことを直感的に感じたのは、いまから半年くらい前のことだったかもしれません。その時は、自分のなかでふと芽生えたその感覚が非常に鮮明で、誰から言われたわけでもないのですが、内面から湧き上がったように感じました。
そして老子 – 息子からの教え 〜 Taoismにも書いたように、今日あらためて息子が2歳の時に話してくれたことを考えると、さらにその辻褄が合うような気がします。

これは、私の単なる妄想かもしれませんし、思い込みかもしれません。それでも、良いと思っています。直感的にそんな感じがするという、それだけで私本人にとっては十分であり、それ以上でもそれ以下でもありません。また元夫の方ではそんなことはまず考えもよらないでしょうし、私がそんなふうに考えていることを知ったら、恐ろしくなってさらに裁判で訴えるかもしれません(笑)

それでも、私が息子と引き離されるという経験をしなかったら、私は”let goする”つまり”手放す”ということの意味を知らないままだったでしょうし、老子の言わんとすることがまったくチンプンカンプンのままだったかもしれません。この苦しみを経験しなかったら、”天下の深い谷間であれ”という老子の言葉がこうして心に沁みることはなかったに違いありません。

そして、Reiが2歳の時に話してくれたことを私流に解釈するならば、反対の道に行くのがいいよと教えられているように思えて仕方ありません。陽極まれば陰となる、陰極まれば陽となると言いますが、どちらかに傾かないで中庸がちょうどよいのだから、違う方向に歩いてごらんということを教わっているように思います。先日はfemininity and masculinity – 女性性と男性性についてで、女性性のクライシスだったと表現しましたが、それは陽が極まって陰に転じるということでもあるかもしれません。いずれにせよ、台風の目というか、折り返し地点というか、崖っぷちというか、ようやくその反対側の道が少しだけ見えてきたような、そんな感じがしています。苦しみの長く暗いトンネルにいたことを考えれば、光のあるところにいられるというのは本当に有り難いことで、それも結局は自分の内面の問題であると思います。暗闇のなかで足元に蛇がいる!と恐れおののくのも、実は少し光を当ててみたらただのロープだったと安心するのも、結局はすべて内面の問題です。つまり、人生の状況それ自体は、実はあまり関係がないのだと思います。というのも、そういう意味では現在の私の状況は、去年の状況に比べれば一般的な意味ではもっと”悪い”状況に陥りました。それでも自分がある程度手放した分だけ、私はずっとラクになりました。すべては、内面の捉え方次第だと言い切って差し支えないと思います。

Reiは私にとって偉大なる師であり、おそらくは元夫にとってもそれは同じことでしょう。
Reiは私にとって、まさにperfect childであります。

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