旅 - a short trip

昨日、旅から戻りました。
とっても短い期間だったのですが、すごく濃密な時間でした。

transformation – 意識の変容でも紹介したRumi(ルーミー)の、また別の詩を紹介してみたいと思います。

“Your task is not to seek for love, but merely to seek and find all the barriers within yourself that you have built against it.”
― Jalaluddin Rumi

”あなたのやるべきこととは、愛を探し求めることではなく、単に、愛を覆い隠しているあなたの中にあるすべての壁を探して、見つけ出すことである。”

この詩を通してRumiの言わんとすることの意味が、心の奥底にストンと落ちたような、そんな旅でした。

私たちはこの世に生まれ落ちた瞬間から、あるいは母親の胎内にいる間からも、さまざまなことを感じ取って、自分が傷つかないように心のなかにバリアを張っているようです。
それはすべて突き詰めれば、”恐れ”から身を守るための防衛反応です。
そしてそのまま成長した私たちは、そんなバリアを張った理由さえも、場所さえもすっかり忘れて、心のなか(無意識のなか)に張り巡らせたその壁とともに生きることになります。

その壁で、本来そこにある”愛”に霧がかかったようになってしまい、曇ったガラスのようになって、そこに”愛”がもともとあったことすらもなんだか曖昧になってしまうようです。そして私たちは無意識のうちに、その欠乏感、虚しさ、緊張感、不安、落ち着かない感じを、外の世界で埋め合わせるように求め、外の世界からなにかを得ようとします。
人間関係に、配偶者に、子供に、仕事に、所有物に、財産に、その日食べるものに、あるいはお酒によって・・・それらを満たそうとするたゆまぬ努力をします。

でも真実は、すべての愛、安らぎは自分のなかにもともと存在するのです。
それがただ単に曇ってしまっているために気が付かないだけであるのに。
その曇った部分に、どんなストーリーの人間関係であれ、一般的に広く評価される仕事であれ、有り余るほどの財産であれ、それらのものを持ってきて貼り付けても、結局もともとの”愛”は見えないままだということを知りました。
そして、その曇りを晴らすには、かなり根気のいる大掃除が必要だということも。

あまりに長い間こびりついたその曇りを晴らすには、くっきりその曇りを照らす明かりと、それをヘラのようなもので根こそぎ剥がすような作業が必要でした。その大掃除のような作業をみっちりとするための、旅でした。

ようやくその曇りの正体が明かされたことによって、曇りが次第にベリベリっとまるで音を立てるように剥がれるような体験をしました。

そして、その曇りの正体が明るみに出た瞬間、”え!!マジで!!そんなことだったの?!わたし、今まで何してたんだろ?!”と笑い転げてしまいました。私は一体、なぜそんなにも苦しみをまるで自ら選択するような道のりを歩いてきてしまったんだろう、面白すぎる!という非常に不思議な、今までに味わったことのない感覚に陥りました。

私にとってその曇りが最初にかかってしまったのは、おそらく母の胎内にいた時のことです。そして、赤ちゃんの頃からなんとなく感じていた違和感、不快感をようやく、ついに自分で認識できた時に、救いが起きました。人によっては、いわゆるバース・トラウマ、つまり生まれ落ちる瞬間に、産道を通り抜ける瞬間の記憶によって作り上げられたものだったりもするようです。

ハッキリ言ってそんな大昔のこと、普通はおぼえていません。でも人の助けを借りることによって、その大昔の苦しみを垣間見て、再体験することができるということを知りました。
そして再体験することによって初めて、その曇りは晴れるのです。

普段、”生きづらさ”を感じていない人は、それでもちろん何の問題もありません。でも私のように、なんとなく”生きづらさ”を感じ、さらには、もう耐えられない!というような苦しい現実が起きたからこそ、こうして探求せずにいられませんでした。

今回気がついたことの一つに、私の場合、”なにかすごくハードルの高い出来事を乗り越えれば、探していた愛が見つかる”というようなビリーフを持っていたということでした。(ネガティブ・ビリーフ – search inside myself part3
私たちはともすると、”頑張った先に、すばらしい未来が待っている”とか、”苦しみの先にこそ、すばらしい達成感がある”という思い込みをします。
でもそれに対して、”え、ってゆーか、そんなに頑張んなくていいんじゃないの?!”、”なんでそんな険しい道を進もうとしてしまうの?!”と自分でツッコミを入れることができた瞬間、すごい解放が起こりました。

どうも私のなかには、ドラクエで強いボスを倒してこそ自分のレベルが上がるとか、あるいはマリオは強いクッパを倒してようやくピーチ姫を助け出せる、とか、テトリスでもちょこちょこブロックを消すより貯めて一気に消したほうが点数が高い、というような、そういうレベルでの無意識のビリーフがあったような気がしてなりません。なぜか、自分のビリーフが、昔ハマっていたファミコンとか、あるいは、観ていたテレビドラマなんかからの無意識への刷り込みがあったかもしれません。
馬鹿げて聞こえるかもしれませんが、私にはそういう実感があります。

リアルな世界に生きていなかった感、ストーリーのなかに生きていた感に笑いとともに気がつけた時、ココロの中にかつて味わったことのないような安らぎを感じました。
しかもその気付きは、決して頭のなかでの”理解”だけでは起こりません。”理解する”、”納得する”というのも実はエゴ(恐れ)の為せる技であり、本当に必要なのはただそのことに気付き、それを感じることだけです。頭で理解するする必要はないということも、大きな気づきのうちのひとつでした。

まったく抽象的な話ばかりになりましたが、これが今回のショートトリップの大きなお土産なので、記憶が新鮮なうちに書き留めてみます。

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