怒りと、そこから導き出された結論 - some conclusions lead by anger

再来週に裁判所へ行くにあたり、弁護士と話し合いをしていて、イライラのピーク!なので、ここにそのイライラについて書くことによって、なんとか自分をなだめようという試みをしてみます。

私は、この裁判のプロセスを一刻も早く終わらせて欲しい、と弁護士に依頼してきました。それは私の切なる願いです。
ただ同時に、見過ごされるべきではない幾つもの問題点もあることもまた、事実です。中でも大きな問題として、

1, 元夫は、”equal shared parental responsibility”(子供に関する重要な決定事項を決める権利は両親に同等にあり、それをお互いに話し合う責任があるという決まりごと)を明らかに無視して、私への一切の相談なしに、元夫は勝手に息子の小学校の入学願書を提出しました。
私は、そもそも2018年に学校をスタートさせるのは早すぎると思っていたし(オーストラリアでは、選ぶことができます)しかも、どの小学校という話し合いも一切ないまま、彼は勝手に家の近所の学校に私のサインもなく願書を提出したのです。
・・・と、まぁここまでは、私にとって腹立たしい現実でありつつも、でもアイツはやりかねないな、という感じのことなのですが、私は何が一番の問題だと思うかといえば、

『裁判所も各ポジションの弁護士も、こうして彼がオーダーを破っていることに対して、何のお咎めもしない』その姿勢です。
なんのためのオーダー、法律やねん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
と、私は裁判官、弁護士という法律のエキスパートたちを小突きたくなります。

私はこれまで、オーダーで言われたことは100%守ってきました。それが、私の義務であり、息子の親権という何物にも代えがたいものを守るために、精神がやられるほどにも徹底して、裁判所からの命令に従ってきたつもりです。

でも、結局のところ、彼のようにオーダーを破っても、裁判所は、それに対して何もしない、法律破りが見過ごされている、という事実を目の前にすると、おまえら、一体なにやっとんねん!と言いたくなるのです。
何のための法律ですか?あなたたちは、何を仕事にしているんですか?と問いたい。

このオーストラリアという国では、法律を破ることが黙認されているのですね、そういう理解で今後生活をしていってよろしいのでしょうか?と裁判官に直談判したい。

2, 一連の裁判システムのおかげで、息子はここほんの7ヶ月の間に、完全に日本語を話す能力を失いました。私は息子を妊娠して以来お腹にいる時からずっと、今年の5月まで、日本語で彼と会話をしてきました。言語というのは、たんなる言葉の問題だけではありません。文化そのもの、親子の関係性そのものです。それが裁判システムによって破壊され、そのことにより、日本語しか離さない私の両親と、私の息子の関係も著しく破壊されたことになります。

このことを私は、いかにそれが息子と私の関係性、そして私の両親との関係性にダメージを与えたか、ということを、通訳後からも借りながら英語の文章にして訴えてきたつもりですが、そんな内容は、一切、顧みられることはありません。
”でもあなたは今、英語で子供と会話できてるんでしょ、じゃあそれでいいじゃん”という態度。

それぞれのバックグラウンドや文化の重要性を一切無視する裁判所、各ポジションの弁護士、そしてエキスパートと呼ばれる人たちは、一体何なんでしょう。こういう裁判システムのおかげで、第一に息子が、そして私たち家族が受けたダメージについて一切考慮しない態度。結局のところ、人種差別そのものです。

”おまえがオーストラリアに来たんだから、英語話せよ”という態度。だから私は、日本人としての誇り - I am proud of being a Japanese part 1にも書いたように、”なにが、REAL AUSTRALIAN SAY WELCOMEだよ!嘘つき!!”と言いたくなる。結局、人種差別が横行しまくっている国、それがオーストラリアなのです。

・・・
と、ここまで、自分の怒りを文章にしたためてみて気がついたこと。

『私が日本からオーストラリアにやってきた立場なんだから、その国のルールに従って、平和的に暮らすことを追求するべき。』
ということです。そして私の経験から導き出されたこと。

①この国のルールとは何か;
・法律は破られるためにある
・約束(法律を含む)は、破ってもいいし、破られてもそれを咎めるべきではない

②そしてオーストラリアは、人種差別が横行する国である、だからこそ、自分自身で日本人としての誇りを大事にして生きていく。

そういうことなのかもしれません。『法律、そして約束事は、破られるためにある』という考え方は、私の価値観をまるでひっくり返す考え方ですが、それが”アリ”な国であるということは、実は生きやすい国でもあるのかもしれません。やっぱり、オーストラリアはゆるい、ということです。日本人のように、すべての物事に対してキチっとしている必要はない、ということです。だから、約束の時間に遅れることは普通のことである、というオーストラリアで暮らす上では必要な価値観も、実は同じようなことです。

書くことによってこうして整理してみると、これまた、”なんだ!そんな簡単なことだったのか!”というような気づきです。『約束事は守らなくてはいけない』という考え方は、まるで私の細胞の一つ一つにまで刻み込まれていたあるひとつの価値観であったに過ぎないことに、ようやく気が付きました。

この2年半にわたるプロセスで学んだことはあまりに多く、計り知れません。ある人の信念をぶち壊すには、そして”自由に生きる”ようになるには、ここまでインパクトの有る出来事が必要なのかもしれません。

よくよく考えてみたら、我ながらずいぶんと自由な人間になったように思います。ずっと握りしめてきた『◯◯すべき』、『◯◯すべきでない』というような価値観は、結局のところ、さっさと手放してしまったほうが、ただ生きやすくなる。それだけのことでした。

そして、自分自身が自分のバックグラウンドや文化に矜持を持っていさえすれば、実は人種差別などという価値観すらも超えることができるのかもしれません。オーストラリアは人種差別が横行する国だ、という私の見解も、実は間違っていて、そんな問題すら消えるほどに、自分が誇りを持っていさえすれば良い、そういうことなのかもしれません。
自分が問題を手放せば、問題のほうが消えていく、きっとそういうことなのだと思います。

ふーー、書いたらやたらとスッキリしました。
書くことは私にとって、何よりのセラピーであります。

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