コペルニクスになりたい – I wish I could live like Mr. Copernicus

先日の記事、『ここが変だよ日本人』にも繋がることなのですが、再びここで、日本人のスピリチュアリティということについて考えてみたいと思います。

日本に帰らなかった3年間の間、とりわけ人生の試練をくぐり抜ける間に私を支えたもの、それはスピリチュアリティに対してオープンになる、ということです。
これまでも折に触れて書いてきたつもりなのですが、どうも、言語、あるいは書くという行為の枠組の中では、ただ表現の限界を感じ、スピリチュアリティについて書くこと、さらに日本語という言語でそれを表現することの難しさに、無力感を感じてきた感があります。

今回の日本への短い帰省の間、私は旧知の友人たちの前で、あえてスピリチュアルに関するテーマ(魂としての存在、輪廻転生、レイキ、クリスタル、ソウルメイト、セクシュアリティ・・・)についてのテーマに話し、彼らがどの程度、そのようなテーマについてオープンに聞いてくれるか、あるいは彼らの意見を聞かせてくれるかということを確かめている自分を発見しました。

同時に気がついたのは、そのようなテーマについて日本人に向けて日本語で話しをしている私は、どこか”照れくささ”を隠すために半笑いになっていたり、”このクリスタル(日本語ではパワーストーン)は◯◯という名前で、△△というような効果があるらしいよ”、と、本当はそれについて信じたいのにどこか懐疑的になってしまう自分の写し鏡のように、半信半疑で他人事のような物言いしかできなかった、ということです。

映画『君の名は。』については以前も書きましたが、私は日本でも、スピリチュアリティや魂の記憶、ソウルメイトといったテーマについて受け入れる素地があるからこそ、こういう映画が大ヒットしたのだと信じているのですが、やはりオーストラリアと比較すればまだまだ・・・というのが実感です。

それでも、私の友人たちが、”ソウルメイトかぁ、、私は考えたこともなかったけど、私の整体の先生が、saekoとすごく似たような話をしていたんだよね”と言って理解を示してくれたり、あるいは、”saekoの話を聞いて、実はあのあとインターネットで調べたんだけどさ”とか、”俺の家族は神社の神主だし、そういう話しは興味あるよ”、、と、わりにポジティブな反応をしてくれたことを、私はとても嬉しく思いました。
そして、そんな私の話しを最も馬鹿にして茶化すだろうなと思っていた大学時代からの男友達に至っては、私が見せた”パロサント”というアマゾン原産で”聖なる木”と呼ばれる(スピリチュアルな浄化に使用する)木片をやたらと気に入ったようで、オーストラリアから日本へ送ってくれ!と彼が発言したことには笑いとともに、ちょっとした感動を覚えたほどです。

きっと、おそらく、いや間違いなく・・・、魂のなにかに触れるものがあるのでしょう。
ただ、そのように目に見えないものの力、科学では説明のつかないこと、とりわけ日本ではこれまで胡散臭いものとされてきたことに対して、”YES”を唱えることに抵抗があることは否めません。

ただ私の実感としては、目に見えないなにかを信じる、それに対してオープンになる、あるいは別の表現では、魂の声に耳を傾けるということは、それを自分に許せば許すほど、そのような世界のほうも私に対してオープンになり、とても考えも及ばないようなシンクロニシティが起こるようになったり、突如インスピレーションを与えられる・・・ということが起こるのだと信じています。

どこか半信半疑になってしまう、その源は、”怖れ”の意識にほかならない、と私は確信しています。
ここで私の言う”怖れ”とは、”愛”という言葉の対極を示す言葉です。
”愛”と”怖れ”という題材は、とてつもなく壮大です。
キリスト教の聖書という書物も、解釈の是非はあれど、愛とは何かということが最大の題材として書かれているのでしょうし、人類にとって普遍的なテーマであることは間違いありません。
私にとっては、ティク・ナット・ハンというチベット仏教の僧侶や、あるいは、ジェラルド・ジャンポルスキーという精神医学者の書いた書籍が、それについて理解を深めるのに役立っています。

少しずつ、探り探り、”愛”と”怖れ”というテーマについて理解を深めるにつれ気がつくことは、愛を知るためには、愛ではないものを経験する必要がある、そして愛ではないもの=怖れであり、実は現代社会は、この”怖れ”をベースに出来上がってしまったシステムなのではないか、ということです。

たとえば、法律。
社会には秩序を乱す者(人を殺す、物を盗むといったことや、あるいは、スピード違反をする、お金のことで不正をはたらくような人々)がいると、自分たちが被害を被るので、そのような悪事を働く人を罰する、阻害する、隔離しなくてはならないという社会の一つの決め事にほかなりません。
もし私たち人類みなが、”人間はみな良心をもって生まれ、この世に不正をはたらく者などおらず、ただ生きているだけで平和と調和が保たれる”と100%信じていれば、法律などというものは一切必要ありません。それは、人類が”愛”のみの世界で生きられる場合だけに成立するのでしょう。

ところが現代の地球人は、”自分や自分の大切な人が殺されるかもしれない、自分の財産が盗まれるかもしれない、自分だけが損をするかもしれない”・・・というような怖れをベースで生きるようになってしまったからこそ、社会は決め事でがんじがらめになり、とてつもない制約とストレスと責任といった不自由さのなかで暮らすしかなくなってしまった。
そして、そのような社会にどっぷり浸かりきってしまった私たちは、”そうでない状態”、つまりは”愛の状態”で生きることとかけ離れ、それはイエス・キリストやマザーテレサのような”超人”にしかできないこと、自分のような”凡人”にはまったく程遠く、有り得ないことだと無意識的に信じて疑わなくなってしまったのかもしれません。

そのように”怖れ”をベースに作り上げられた、地球上の社会あるいは国家がいかに酷く醜い状態であるか、ということは、少しだけ冷静に、客観的にこの地球を見渡せば誰でも理解できます。
地球の生態系が崩れている、気候変動、異常気象・・・といった事柄について、かくいう私も、長い間、まるで対岸の火事のようにしか捉えていませんでした。
”なんか、すごくヤバいことが起きているらしいけど、まぁ自分にはどうすることもできない話だし、私なんかにできることは殆ど無い。私が、コピーに裏紙を使うか、白紙を使うかの選択なんてまるでちっぽけすぎて、そんなことを私が気にかけ”エコ”なことをしたところで、何の役にも立たない”
長い間、そのように感じていました。

でも、本当はきっとそうではない。
実際に自分がコピーに裏紙を使うかどうか、とか、買い物にマイバッグを使うとか、あるいはユニセフに寄付をするとか、そのような”私の小さな行為自体が、実際的にどのくらいの効果を生み出すか”と考えることは、ほとんど無益なこと、逆に無力感を助長するだけのことであって、私たちの意識、世界観がガラリと変わること、この地球上でいかに人類がその意識に達することができるかどうか、そこがポイントなのだと今は確信しています。

先日、メルボルンにある、とある小さな教会で見つけたアメリカ原住民(インディアン)のこの訓え。

We do not inherit the earth from our ancestors, we borrow it from our children

– Native American Proverb

私たちが生きるこの地球は、先祖たちから受け継いだものなのではなく、私たちの子孫からの借り物なのだ

この言葉は、見事なほどパワフルに、私たちの意識を変え、反転させる言葉だと思いました。

アメリカ原住民が、植民地時代、”私たち人間が土地を支配する”という西洋人の発想を一切理解せず、”私たち人間がこの土地に属している”と信じていたという話しは、いつかの記事にも書きましたが、まさにそのような発想。

いまわたしたち地球上の人間にとって必要なのは、まさにこのような、コペルニクス的な意識の反転なのではないでしょうか。

私は、自分を魂としての存在として認識するようになってからというもの、(これまでもしつこいほどこのブログに書いているのですが)まるで台風の目に入っているような、地球人としての折り返し地点にいる、そんな感覚があります。

これまで当たり前だと思ってきたこと、信じて疑わなかったことをすべて捨て去り、まるで180度真逆の発想に切り替わるときなのだ、そんな気がしてならないのです。

これはタオイズムにも通ずるものであって、私はここ数年間、人生の試練を通して、陰陽マークの
それぞれの中心にある小さな点のなかに入ってしまった、どうもそんな気がしてならないのです。

そして、これまで信じてきたこととの真逆(白から黒、黒から白)へ反転するとはどういうことか、別な表現では、怖れがベースの世界ではなく、愛に基づく世界観とは何か、ということについて荒療治を施されながら、学ばされている。そんな実感があるのです。

以前とは真逆の発想で生きるためには、スピリチュアリティ、魂の存在としての自分を100%信じ切る必要があり、そのためにこの地球上で、一般的に”ソウルメイト”と呼ばれる人と出会うことによって学ばされている、そのように信じています。

太陽が地球のまわりを回っているのではなく、私たちの暮らす地球が太陽のまわりを回っている、という、とてつもない発想の転換、それを怖れずにこの世に発表したコペルニクスという人の勇気を、私は今日、心から尊敬しています。

Love is inside out, upside down.

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