過去5年間の総決算 - what has happened to me in the last five years

先日の帰省の折、息子が赤ちゃんの頃からお世話になっている、私の実家、横浜にある『Umiのいえ 〜 いのち・こころ・からだ・くらしの学びあいの場』を、3年ぶりに訪れました。
足を踏み入れるや否や、『おかえり!!お腹すいてない?おむすび食べる?』と温かく出迎えてくれたその場所は、まるで私のふるさとのようでした。

そのNPO法人の代表の方から、『Umiのいえ通信』という小冊子へ記事を書かないか、とお声がけ頂き、私はふたつ返事で、書きます!やらせてください!と答えていました。

そして今日、半日かけて書いた原稿は、本来の文字制限800字を遥かに越えた、4000字余りのものになってしまいました。
でもこうして、これまでの5年間の私の体験についてひとつの記事にまとめるということは、私にとってかけがいのない貴重な総決算となり、最大の癒しとなりました。

大幅な文字制限越えのため、私の原稿は没になるかもしれないなと思いながら、せっかく書いたので、ここにその原稿を転載してみます。

 

 

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もうじき5歳になる最愛のひとり息子と、一緒に暮らさなくなってもう1年以上になります。3年に及ぶ、オーストラリア人の元夫との親権をめぐる裁判で、最終的に私が息子の親権を永久的に放棄する、という決断をしたのは昨年の暮のこと。

息子は日本で産まれたのですが、重度のアトピーと、後に判明したことですが、数多くの食物アレルギーを持ち、とりわけ彼が生後間もない頃は、夜もまともに眠れないほどひどいアトピーで苦しみました。日本で生まれ育った私にとって、オーストラリアという異国の地でそんな息子の子育てをすることはあまりに過酷で、日本にいる私の両親のサポートのもと、しばらくの間、私たちは日本で過ごしました。
当時、アトピー湿疹の痒みで思うように眠れない息子を唯一なだめたのは、私の母乳でした。どんなに痒くても、おっぱいを吸っている時だけ、彼は眠りにつくことができました。そのことがわかってから私は、彼を片時も離さず、成長も遅く身体の小さい我が子を始終、家の中でも外でもスリングで抱いていました。

実家からそう遠くないUmiのいえの門を初めて叩いたのも、その頃のこと。ひょんなことから、梅崎和子先生という陰陽調和料理の師の講演会に出向いたことがきっかけでした。
アトピー、食物アレルギー、低体重・・・といった、育児に関する問題にぶち当たったことで、私は“本能”あるいは“野性”というものに突き動かされ、それまで考えもしなかったような“自然に寄り添って生きること”の大切さを痛感していました。自然療法や、布おむつを使った自然育児など、まるで現代の“便利な生活”から逆行するような、昔ながらの伝統的な育児について触れた時、私にはどういうわけか、“これこそが私と息子にとって必要なものだ”という確固たる自信がありました。
クスリや医学に頼るのではなく、母親としての“勘”を養いながら、自然に寄り添った育児をする。その精神は、巷の育児ノウハウ本などにはとても敵わない、力強い説得力を持ったものでした。私は無我夢中で、重ね煮料理、母乳、お手当、兵児帯での抱っこ・・・などについて、Umiのいえで教わりました。

当時、乳製品・卵・小麦を私が食べて授乳すると、そのぶん息子のアトピーが悪化することに気がついてからというもの、それまで大好物だったこれらの食材を私は一切口にせず(いま考えれば、とてつもないストレスです)、それでも私は頑固に母乳で育て続けました。周囲からは、“すごくしんどそうだから、少しは母乳を休んで、ミルクに切り替えたら?”などという助言を受けたものですが、私は当時、“私自身も小さい頃アトピーがあったから、私のせいかもしれない”という罪悪感にも苦しみながら、その方針を変えず、育児に“奮闘”していたのでした。

日本に3ヶ月後に迎えに行く、という約束をした元夫をオーストラリアに残し、私と息子は日本へ発ち離れ離れに生活したまま、いつのまにか9ヶ月という年月が経過していました。
彼はなぜ私たちを日本に迎えにこないのか、ということに怒りと苛立ちをおぼえながらも、私は日々の子育てに精一杯でした。
そうこうするうちに、息子の2歳の誕生日が目前に迫っていました。
私の息子と彼の父親とを、日本とオーストラリアという距離で引き離していることは、決して私の本望ではありませんでした。私は日々息子の育児に必死で、息子の父親が日本へ迎えに来ないまま、ただ9ヶ月という長い時が経ってしまった、そういう感覚でした。

息子の2歳の誕生日に向けてオーストラリアに戻ろう、私がそう決断したのは、2015年の始めのことでした。

小さな息子を連れてオーストラリアへ戻った後、実は元夫にはとっくに新しいガールフレンドがいた、という事実がわかったのは、ほんの数週間後のことでした。私は、目の前が真っ暗になりました。たとえ離れ離れに暮らしていようとも、私たちは結婚をしている家族である、私はそう信じていました。

ところが彼の方ではまるでそうではなかった、という事実に愕然としながらも、オーストラリアでの子育てを再スタートさせた私は、肉体的にも精神的にもストレスのピークで、ついには、オーストラリアの精神科へ連れて行かれる始末にまでなってしまったのです。

それが、悪夢の始まりでした。
私のもとに元夫から、『君は精神病を抱えている。10日以内に家庭裁判所へ来い。さもなくば、息子の全親権を取り上げる。』という内容の裁判書類が届きました。そして家にしまっておいたはずの、息子の日本とオーストラリアの2冊のパスポートがなくなっていることに気が付きました。
私が、英語で記されたその裁判書類の意味を完全に理解するのには、時間がかかりました。それでも、なにかとても大変なことが起きているということだけはわかり、オーストラリアにいる日本人で家庭法専門の弁護士を探し相談したところ、これは即座に対応しないと大変なことになる、と言われたのは、忘れもしない2015年5月のことでした。

そのオーストラリア家庭裁判所への元夫からの主訴は、『saekoは、精神病とアルコール中毒を抱えていて、息子の養育能力がない』というもので、そのための何十ページにも渡る供述書には、嘘やデタラメ、大げさが書き連ねられていたのです。私は、頭がまっ白になりました。
そこから、私の長い戦いが始まりました。オーストラリアにおける裁判では、売られたケンカは買わない限り負けになる、というのが大前提だそうで、私の両親がひとり娘である私とひとり孫のために、高額の弁護士費用を払わなくいけなくなったのも、そのときからです。
彼が書いた裁判書類のなかでは、3ヶ月後に日本へ迎えに行くという約束などすっかり揉み消され、とっくに別れていた、という記述から始まり、saekoは昔から精神病を患っていたというまったくの嘘の記載がありました。さらには、私は確かにお酒が好きですが、妊娠してからというもの、当たり前のように一切飲酒などしていませんでしたが、あまりのストレスにただ一度だけ、泣きながら搾乳をし、ひとりでバーにビール1杯を飲みに行った日のことについて、“授乳中も、夜な夜な男と飲み歩いていた”などとどんでもないことが書かれていたのです。

私の両親は、彼が家庭裁判所に提出した嘘とデタラメに満ちた書類のウソを暴くために、膨大なお金を費やしました。オーストラリアでの裁判システムについて右も左も分からない私たちは、日本人の弁護士費用、通訳、翻訳、有能な法廷弁護士・・・それらを総動員して真っ向から反戦しました。
それでも結局のところ、未だに白人第一主義のオーストラリアのなかで、私は、日本からやってきたアジア人の女性、という非常に弱い、ただ無力な存在だったのです。
ボロボロになりながらも、私と私の両親は、息子のために3年間必死に戦いました。考えうるすべての手を尽くしました。
ところが、その裁判によるストレスが再び私の精神を病み、そのことが決定打となって、私は親権を手放さなくてはならない、そう決断を迫られ、最終的に同意したのが2017年暮れのこと。
その時にはすでに、私と息子は引き裂かれ、ほとんどの時間を息子は彼の父親とそのガールフレンドのもとで暮らすようになっていたのです。
その3年弱の間、私はどれだけの涙を流したことでしょう。生きる意味さえ見失いそうになりながらも、たまに会える息子の笑顔だけが支えとなって、どうにか生き延びました。

その苦しみの先に一筋の光が見えるまで、ずいぶんと長い時間がかかりました。その光とは、私が親権を取り戻す、という現実的な解決法などではなく、“親権”などという決め事を手放したところで、私と息子との間にある確固たる絆は変わらない、そのことへの気付きでした。

アトピーやアレルギーといった問題に一心同体となって取り組んだ私と息子の間には、誰からも侵害されることのない、目に見えないとても力強い絆が出来上がっていました。
そんな私たちにとって、週に何時間一緒に過ごすか、などという時間の長さなどほとんど問題にならない、目に見えない強い繋がりがあるということに気がついたのです。
どんな言葉でも説明のできない、その強い絆とは、まさに一心同体で生き抜いた、そういう私たちの歴史があるからこその賜物でした。

そのことに気がついた私は、ようやく、くだらない戦いなどやめて、内なる平和のなかで息子と過ごす時間を大切にしようと思えるまでになりました。

そこに至るまでの過程は、まさに荒療治。私は内に抱えた怒り、悲しみ、後悔、罪悪感・・・そういったすべてのものを外に吐き出し切る、そのことに専念しました。

私はそのプロセスのなか、オーストラリアで”The break room”といって、内に抱えた怒りなどの感情を発散するための素晴らしいスペースがあることを知りました。個室のなかで、コップや皿などのガラス、瀬戸物、あるいはTVモニターなどの電子機器を壁に叩きつけて割ったり、バットでめちゃくちゃに叩きのめし、さらに大声で喚いても誰にも聞かれることのない、そういうスペースが用意されていたのです。私はその場所で、『馬鹿野郎!ふざけんな!馬鹿にしやがって!!息子を返せ!! F*ck!!!!!!!!』というような口汚い叫びとともに、泣きわめきながらバットを振り、レンガの壁に皿を叩きつけるという行為を繰り返しました。
煮えたぎったまま長い間フタをされていた鍋の中から、パッと開いた瞬間に中身が勢い良くこぼれ出すかのごとく、私の内なる感情が、外に押し出されるのを肌で感じました。そして後に残ったのは、心地よい爽快感と、明日を生きる力となる、希望という名の光が入り込むちょっとしたスペースでした。

今になってこうして息子が産まれた時からの一連の経験を思い起こせば、そこで学んだ遺産は、何よりもかけがえの無いものでした。
苦しみ、悲しみ、悔しさ、怒り・・・そういったネガティブを身体のなかから思い切り吐き出せば、そこにはただ愛という光だけが入り込んでくるということを知ったのです。

私と息子は、お互いのちょっとした表情一つから、前日までにお互いが抱えていた悲しみを感じあい、一緒に過ごす時間、お互いの肌にふれあう時間の尊さを噛み締めながら、お互いの心が手に取るようにわかる関係になりました。それはともすれば、週7日一日24時間一緒に暮らしていては気がつけなかった、目に見えない周波数で繋がったラジオ放送の電波のようなものです。
会えない時間の寂しさ、悲しみ、愛おしさ・・・それによって私たちは他の人には目に見えないアンテナを育てながら、愛という名の、私たちだけの周波数でコミュニケーションができるようになりました。
そのまばゆいほど大きな愛が、今日も、別々に眠る私と私の息子を結ぶ、大きな架け橋となっているのです。

 

 

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この記事を書きながら、どういうわけか、『会えない時間が、愛育てるのさ、目をつぶれば君がいる』という郷ひろみの歌が頭の中でリピート再生して止まりません。

それにしてもいつもながら、文章が長い、長すぎる。読み手のことをほとんど考慮していない長い文章、ましてやブログとしては、有り得ない文章の長さ。
わかっています。でも、自分が伝えたい事はすべて盛り込まないと気が済まないのが、私の気性なのです。

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