”目覚め”とはなにか - what is “awakening”?

“目覚める”とは、一体どういうことなのか、という壮大なテーマについて書いてみたくなりました。

目覚めのプロセスというのは一旦始まってしまうと、もう後戻りはできないのだと思います。

私の人生でウェイクアップコールが鳴り出したのは、裁判が始まった2015年頃のことです。息子が産まれて子育てに翻弄され、そして元夫との中がこじれたあたりから、何かただならぬことが起きている予感はあったのですが、人生のすべてがひっくり返るような苦しみが襲いかかってきた3年前、体内の目覚まし時計どころか警報装置のようなけたたましいサイレンによって、私は叩き起こされたように思います。

長い眠りから”起こされる”感覚というのは、無意識というまどろみから、意識的な気づきという隙間ができる瞬間で、”あれ?もしかして今まで夢を見ていたのかもしれない”というような感覚、あるいは、今まで自分がすっぽりとドラマのなかの世界に暮らしていたのに、実はそれが錯覚で、自分はそのテレビドラマを観ている一視聴者だったんだ、ということに気がついてしまう感覚、とでも言えばよいのでしょうか。
あるいはもっと端的には、”私”という存在を客観的に見始めること、と言えるかもしれません。

始めのうちはとても薄っすらとした感覚だけだし、”私の人生ではこんなにひどいことが起きた”、”あいつはとんでもなくひどい人間だ”などと、周りの出来事や人々だけに相変わらず目が向くのですが、実はそれは、自分が世界を見ているフィルターによる仕掛けだったのだ、ということが段々クリアーになってきます。

人はおそらく、苦しみがある一定を越えた時、さらにその苦しい現実の世界を自分の力で変えることはできないという真実を知った時、必然的に自分の内側を観るようになる、それが目覚めのきっかけになるのだと思います。私にとっては、まだ幼い息子と突然離れ離れになったこと、そして元夫から裁判という形で攻撃を受け、どんな手を尽くして抵抗してもその現実を覆すことができないことを知った時、自然と自分の内側に意識が向かっていました。

そんな体験をし始めて3年が経ちますが、”生きる上で感じる苦しみはすべて、自分の内側の苦しみであって、外側の世界には一切なんの問題もない”ということがここにきてようやく理解でき始めたように思います。
別の言い方をすれば、”人生の苦しみはすべて、恐れという名のオバケである”ということでもあります。自分のなかの思い込みを外してしまいさえすれば、実は人生は深刻なこともなく、苦しみなんかない、単なるひとつひとつの瞬間の連続であることがだんだんと見えてきます。

ただし、”思い込みを外してしまう”と一言で言えど、それはあまり簡単なことではありません。私はこれまでの3年間に書き出した自分の中の”ネガティブな思い込み”は、ゆうに100個以上あり、気がつけば気がつくほどだんだんゲーム感覚のようになってくるのですが、とても根深い無意識にある思い込みを見つけるというのは、超難易度の高いゲームだと思います。それでも人生とは不思議なもので、その高度な思い込み発見ゲームに関する”ヒント”が与えられる出来事が必ず起こってくることもわかってきました。

そして最近気がついたことは、必ずしもその”気付き”は頭で理解されうるものではない、ということです。私がそれを特に感じるのは、ダンスなどで身体を動かした時に、身体の中のどこかに潜んでいた無意識がパッと出てきて解放される瞬間です。思いっきり踊っていると、ふと涙がとめどなく流れ、なんだかよくわからないけどスッキリする、というような時、どこかの何かのブロックが外れたんだなと感じることがあります。ハグを受け取った時に癒やされる感覚も、そのようなものかもしれません。
私は個人的に、瞑想だけでその域に達するのは遠回り、高度なゲームをむしろもっと難しく大変なものにしてしまうと思っているので、悟りを開いた宗教者たちというのは、とてつもない忍耐力があってすごいなぁとただ感心してしまいます。悟りを開くというのがどんな感覚なのか私にはよくわかりませんが、少なくとも目覚めのヒントというのは、わざわざ僧侶にならずとも、日常生活の中にわんさか転がっていると思います。

では目覚め始めたら、人生はラクになるかといえば、むしろ逆。苦しみの連続です。頭で仕組みを理解したところで、自分の中に潜む恐れと対峙するのは、激しい痛みが伴います。

ここのところの私は、相変わらず激しい嵐のさなかにいるようで、感情の波に飲み込まれそうになりながら、なんとか必死に生きているのですが、押し寄せるひとつひとつの波を無視するわけにはいかないのだ、これはもう宿命なのだと腹をくくるしかありません。この嵐が静まって、静寂な時間が訪れるときはいつか必ずくると信じて、今は今を必死に生きるしかありません。

これでも、”宇宙よ、私の人生よ、私がラクに生きられるようになるならば、喜びに満ち溢れて生きられるならば、私はもう一切の抵抗もしません。どうか起こるべきことがただ起こりますように・・・”と祈るような気持ちで日々を生きるようになってきていて、そんなふうに無抵抗な姿勢でいられるだけでも、実は以前よりラクに生きられるようになっているのかもしれない、とも思います。

いま私が直面している最大のテーマは、自分の中の男性性と女性性の融合。このことについては、また、あらためて。

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