オープン・リレーションシップについて② - Open relationship 2

一昨日のオープン・リレーションシップについてに続きます。

地球上における男女の関係のほとんどが”一夫一婦制”になってから、果たして何百年(千年?)経つのでしょうか。結婚という取り決めが制度化されたのは、一体いつの頃のことなのでしょうか。

私と元夫との結婚は、日本で言うところの人前式といいますか、宗教の形をとらずにセレブラント(結婚執行人)が証人になって婚姻を成立させるという、オーストラリアではメジャーなスタイルの式を行いました。
セレブラントというのは政府から与えられる国家資格、つまり結婚の証人になるという職業です。
結婚式でその人の前で宣誓する内容は、神父さんの前で宣誓する内容とほぼ同じで、”あなたは、この人を生涯愛し続けますか?”というようなものです。それを神に誓うわけでもなく、セレブラントや家族に見守られながら、人前でそれを誓うというものです。

さて私たちの結婚は、私と息子が日本に滞在している間に元夫が別の女性と付き合っていたというところで決定的な破綻を迎えたわけですが、私はその事実を知ったとき、宣誓の意味とは一体何だったのだろうかと深く考えざるを得ませんでした。
信心深い人が、その人の信じている宗教の神に対して何かを誓う、というのはおそらくその人にとってはかなり重要な意味を持つでしょうし、それに背く行為は自分の生き方、ポリシーに反するということになります。そういう意味で宗教というものは、一度誓った約束事を強固にするためには歴史上重要であったことは間違いありません。
神に誓いを立てるということに比べ、婚姻のために国家資格者の前で誓いを立てるということは、そもそも効力の弱い行為に思えてなりませんが、ともかくオーストラリアでは、そのスタイルの結婚式はメジャーなようです。

ちなみに、オーストラリアでは離婚率がとんでもなく高いです。
オーストラリアで私と同世代の人たちと話をしていると、”別れていない両親をもつ人”に出会うことのほうがずっと稀だなと感じます。
日本では熟年離婚が流行っているそうなので現況についてはよくわかりませんが、少なくとも私が学生時代、たとえば中学校のクラスには両親が離婚した人は私の記憶する限り1人だけだった、つまり私達の親世代の離婚率は極めて低かったように思います。

前回の記事でも触れましたが、私は以前、日本人は”家族のため、子供のため”に生きている人があまりに多く、真の意味で自分の人生を謳歌しているが少ない、と嘆いていました。私の母に何度問いただしても母は『私は自分の子供のためになることが、私の幸せだ』と言い切ります。私には、彼女には自由がなく、面倒なことにも耐えて、家族のための人生を生きるんじゃなくて、自分のしたいことをもっと自由に生きれば良いのに!と思い続けてきました。
でも私は最近になってようやく、『家族のためになることが自分の幸せ』という確固たる自分の信条に則って人生を生きるということは、私の母にとっての幸せの形なのだと理解し始めました。

そういう自分自身の信条に則って、家族を守るために生きてきた女性たちは、過去何百年、何千年という間にこの地球上にどれだけの数いたことでしょう。『家を守る』、それが女性の在り方の根幹であるようになったのは、日本大陸だけを見て少なく見積もっても、人間が定住生活を始めた弥生時代(紀元前10世紀〜)だとしても、3000年以上です。(しつこいようですが、私はそれ以前の縄文時代の人間の生活についてめちゃくちゃ興味があります。その話はまた別の機会に。)その少なくとも3000年の間に、日本のなかだけを想像してみてもどれだけの数の女性がいたことでしょう。

その女性たちの『家を守る』という役割のおかげで、人間は何千万年と生き続けてきたに違いありません。そう考えてみると、現代というこの時は、女性が『家の外に出ている』時間のなんと長いことでしょう!これでは、地球上のすべてのバランスがおかしくなるのだって当たり前です。大戦後ほんの100年足らずの間に、このダイナミックスがどれだけ変わったことでしょう。

・・・話がまたどんどんと逸れる予感がしてきたので、一夫一婦制の話に戻します。

『家』という基盤もそもそも揺らぎ、そしてご近所付き合いなども含めた地域のコミュニティーも消失した現代において、私達は極めて孤独です。
必ずしも男女関係に限らず、人間の”ひとりでは生きていけない(ひとりで生きたくない)”、”誰かと繋がって生きていたい”という安定を求める根源的な欲求は、抗えない人間の本能のように思えます。
そして結婚という制度あるいはモノガミー(一対一の恋愛、パートナーシップ関係)は、『お互いに裏切ることなく、人生を共に生きる相手』、あるいは『少なくともこの人は自分をひとりにはしない』という契約を結び合い、安定を約束し合うシステムとも言えます。(反論はあれど、私はそう解釈しています)

ところが、あるひとりの人間が誰か別の人の求めるものを100%満たすことができるかといえば、私はそれはNOだと思います。自分自身のニーズを満たすだけでも容易いことではない上に、誰一人として別の誰かのすべての必要や欲求をひとりで満たすことができるとは到底思えません。
地域の共同体がしっかりとしていた時代は、互いに寄り添って助け合いながら人間は生きていたはずです。例えば、子供を何人も持つ夫婦の奥さんが急に亡くなったとする、そうすると昔なら地域でその子供を助け合って育てたでしょうし、その妻を亡くした夫や子どもたちの必要としているものは、誰かしら周りの手助けによって満たされ、生き延びることができたはずです。
ところが人間が個という単位で生きる現代では、人と人が助け合って生きることというのは、昔ほどに容易ではありません。

そういう時代だからこそ、個としての存在がそれぞれ求めるものを、様々な形で複数の人と関わり合って生きたい人生を可能にする、というのはとても理にかなったスタイルなのではないかと思うのです。そういうライフスタイルの一つの形態がオープン・リレーションシップであり、自分の人生を生きたいように生きるためのゲートウェイであるように思えてならないのです。

日本とオーストラリアの違いに触れて感じるのは、”両親が別れていない”家に育つことと、”自分が幼い頃に両親が別れた”家庭にに育つことは、その人が”異性を信頼することができるかどうか”という点において、決定的に大きな違いがあるように思えてなりません。”信頼する”能力は、幼少期の家庭内の安定などに大きく関わっているように思います。そしてそれはもちろん、善悪の問題などではありません。
私自身がシングルマザーになってみると、私の息子は父親と母親が仲睦まじい家庭内で育つことができなかったということであり、そのなかで人を信頼する能力、安心感や安定感をどうやって息子に示してあげたら良いのかと模索する日々です。
どんな困難や苦労があっても、”必ず乗り越えることができる”という確信のもとで、家族単位の中で育ったことは、私が自分の人生に与えられたとても恵まれていることのひとつです。
そしてこの”個”の時代において、人と人がどうやって信頼し合うことができるかという点は、非常に大きなテーマであるように思え、そんな時代に私が然るべき相手に差し出せるものがあるならば差し出すことは厭わないという姿勢で常に生きたいと思うのです。

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